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8月15日

豪雨のなか大学へ。防水がウリのカバンだったのですっかり大丈夫なものと思っていたら、中がびしょ濡れになっており、本が1冊やられた。イライラ。

金管五重奏の合わせ。みんな喋らんので練習の音頭をとるのが面倒。練習後は同期とキッチンごりらでハンバーグを食べた。今後もサークルにかかわるか悩んでいるらしく、大変そうだった。

後輩の能力を思いのほか伸ばすことができなかったことを悔やみ、それをただ責任という言葉に回収して自分の労を払うのは、困っている後輩にとってはありがたいだろうけれど、ちょっとなあと思う。先輩からの指導は、当人にとって数ある練習の手引きのひとつでしかないし、傍目に見ても彼はよくやっていた。先輩ができることといえば、後輩にとって必要なものへの道を開けておいてやることだけだと思う。本人が気づいていないことを教えてやるとか、気づいていながらその改善方法が分からないでいるときに、そのヒントを与えるとか、それくらいではないか? その責務をそれなりに上手く果たした彼が引け目に感じている当のものの正体は、責任というよりはむしろ同情だろう。

われわれは、自分に教える方法でしか他人に教えることはできないと思う。すぐれた指導者は、きっと意図以上に大きなものを生徒にもたらすのだろうけれど、残念ながら僕たちはそうではなかった。それで、良い指導者でなかったことを理由に、その損害を自身の演奏で補填するというのは、よく分からない話だ。結局、論理的なモヤモヤを「演奏会の出来」という事後的なものに託すことで話を有耶無耶にしてしまうのだ。

彼は、畢竟、イエスかノーかの意思表明がすべてなのだから、大いに自分勝手に考えてほしいと思っている。そういう話を断片的にした。