7月30日

10時に起床。朝食をとり(ぼんやりしていたせいか、米をよそったお椀を落として割ってしまった)、Aviciiのプレイリストを流しながらチェーホフ『かもめ』を読んだ。

欲しいもの――たとえば、愛や承認――を与えられないでいる状況のもとで、与えられたときのことを夢想する。必要なものを失ったのではなく、それが手に入らないでいる限り、理想と現実は一度も交差することがない。観念の根源が現実の暗いところをひとり横滑りし続けるかぎり、どんなに世界が移ろいゆくとしても、その解決はますます現実の手を逃れようとする。

湖のほとりに、ちょうどあなたみたいな若い娘が、子供の時から住んでいる。鴎のように湖が好きで、鴎のように幸福で自由だ。ところが、ふとやって来た男が、その娘を見て、退屈まぎれに、娘を破滅させてしまう――ほら、この鴎のようにね。

この若い娘が破滅した原因は、男だったのだろうか?いや、きっと違う。さらに言えば、この娘は「破滅」したのではなく、酷く失敗したに過ぎない。トレープレフの観念の痕跡である、デカダンな劇の台本を頼みの綱に、彼女は回復に至る。

物語のなかで執拗に繰り返される、僕の気持ちがあなたに分かったなら、というような台詞は、ただの当てこすりではない。彼は、心の底から、あるいは、現実の彼岸から、理解を求めていたのだ。彼は最期まで、ニーナの在り方を解することができなかった。

きっと2年くらい前にこの戯曲を読んでいたなら、僕はトレープレフの姿や語りのなかに自分の在り方を強く見い出していただろうという確信がある。だからこそ、彼の苦悩を嗤うこととも、悼むこととも距離を置きたい。

15時頃に大学の図書館へ。読書という気分でもなく、季節も季節なので北野武菊次郎の夏』を観た。

菊次郎の夏 [DVD]

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みんなが各々の作業を黙々とこなしている静かな部屋で、声を上げて笑いそうになったり、涙ぐみそうになったりと忙しかった。無邪気でいることが日に日に難しくなっていくなかで、菊次郎が(手段こそ屈折しつつも)正男に向き合う様子は、何よりも励まされる。観終えた後は、何処かに置き忘れたような懐かしい感覚が、胸の深いところにじんわりと染み渡った。

映画を観終えてもなお、本と向き合う気分になれないまま本棚の間をぶらついていると、エゴン・シーレの画集を見つけたので、ぼーっと眺めていた。どの肖像画も、まるで仮面をつけているかのようで、しかもそれが僕の目には説得的なものに映る。とても生々しい。過激なテーマや描写も少なくなかったけれど、不思議とそれが下品だとは感じなかった。ポスターが欲しいと思ったけれど、いざ家に貼ってしまったら、僕のなかの暴力的な性質が生き生きとしはじめ、理性の制御を振り払ってしまいそうな気がする。そういう力がシーレの絵にはあると思う。特に印象に残っていたのは『隠者たち』と『風の中の秋の木』。そういえば、京都市美術館でダリ展が開かれているのを思い出した。

その後は少し勉強をし、お椀を買い足してから帰宅。麻婆豆腐を鍋になみなみ作って少し食べた。料理が面倒なので、だいたいの料理は何食分かまとめて作って冷蔵・冷凍しているけれど、流石に麻婆豆腐を10食分も作ったのは初めて。

いい加減、映画館で映画を観たい。